Diary
忘年会の幹事を二件ほど受けることになった。ひとつはカレー鍋と決まってるんだけど、もうひとつはどうしようかなぁ。
「聖剣伝説2」
Wii の VC 版。想い出は美化されるものだとつくづく思った。寒い国まで来た。ボス戦クリア後に一回ハングした。
忘年会の幹事を二件ほど受けることになった。ひとつはカレー鍋と決まってるんだけど、もうひとつはどうしようかなぁ。
「聖剣伝説2」
Wii の VC 版。想い出は美化されるものだとつくづく思った。寒い国まで来た。ボス戦クリア後に一回ハングした。
※過去の出来事を綴ってます
仕事の内容は、アプリ A で扱える機器を、アプリ B でも扱えるようにするという、要するに機能移植だった。アプリ A とアプリ B は、UI の見た目がまったく違うのだが、そんなことをお構いなしに無理矢理移植したもんだから、まぁ、案の定、その機能の画面は、アプリ B では浮きまくりだった。使用するライブラリや UI の部品などもまったく違うもんだから当たり前ではあるが、見る人が見れば、あぁ、これはアプリ A から持ってきたんだな、と分かってしまうレベル。っていうか、素直にアプリ A を使えって感じだ。
UI の話が出たので補足してみる。常駐先の会社は、ありとあらゆるデザインに(面倒にも)とても気を遣っており、色指定はもちろん、画面内のパーツ配置はドット単位で指定される有様だった。しかも、デザイナーは、プログラマ側の都合などを考えず、やりたい放題な指定をされてきやがり、こんな感じでどうでしょう?と画面キャプチャを見せると、ここのボタンをもっとこっちにしてフォントをこれに変えてどーたらとか、どうでも良いことを後から後から言ってくるため、泣く泣く座標をハードコーディングしてやった(良い子は真似しちゃダメだぜ)。ちなみに、ドット単位の修正確認には、Windows ペイントが活躍した。
アプリ A もだが、アプリ B の開発メンバは、実に個性的だった。機能の移植にあたり、当時、ダイアログの作り方を覚えたての僕は、得意げに、これこれこういう風に実装します!みたいな説明を、アプリ B のアーキテクトに説明したが、なんだか苦い顔をされた。また、アプリ B は、メジャーバージョンアップ版も平行で開発しており、マイナーバージョンアップ版であるこちらの作業には、ほとんど人員が割り振られなかった。みんなとっても忙しそうであり、まだまだぺーぺーだった僕は、心細く、ひっそりと実装を続けるしかなかった。あと、アプリ B は、やんごとなき事情により、物理メモリを大量に消費するため、PentiumII 400MHz + 64MB な開発マシンでは、まともに動かなかった(多少誇張しています)。
※過去の出来事を綴ってます
件のアプリ(『アプリ A』)のメンテナンスをしていた或る日のこと。前バージョンの開発リーダーを担当していた人から声がかかった。曰く、「別のアプリ(『アプリ B 』)の新バージョンの開発をするんだけど、人手が足りないので、助けてくんない?」ということらしい。加えて、「正直やりたくなかったんだけど、やれと命令されたので、しぶしぶ俺がリーダーでやることになった。今回はマイナーバージョンアップであり、メジャーバージョンアップは別の部隊が既に動いているので、あんまりやる気もない」とのこと。かなり脚色入ってるけど、ぶっちゃけこんな感じだった。あとは…常駐先の社員にやらせるようなもんでもないし、(当時は)若くて使い易そうな自分が選ばれたんでしょう。なぜなら、アプリ A の新規バージョン開発には、例の自社の先輩が参加することになったのだから。
※過去の出来事を綴ってます
(言葉は悪いが)お茶を濁す形でリリースされた焼き直しバージョンの無念さを取り返すべく、息をつく暇も無いまま、現場はもう一度新規バージョンの開発作業に突入した。しかし、前回の失敗は、ほとんど下回りのライブラリが原因だったため、GUI 寄りな部分を担当していた自分は、あんまりやることが無かった。これ幸いと、オブジェクト指向だの MFC だのを勉強した(はず)。ようやくライブラリも完成(?)し、待望の新規バージョンがリリースされた。自分で言うのも何だが、これは当時としては良くできていたアプリで、巷の評判も良かった。プロジェクトメンバの仲は悪かったけど、アプリの評判は良かった(しつこい)。
メンバーの一部が入れ替わりつつも、件のアプリの開発は続けられることになった。偉い方による思い付きにより、次のバージョンで、とあるライブラリを利用した新機能を入れることになり、自分はなぜかデータベースの担当者になった。データベースの知識なんて、情報処理技術者試験で勉強したときの単語を覚えているレベルの自分が、なぜ担当になったのか?当時は謎だったが、新リーダーの単なる思い付きだったのだと今なら言える。兎にも角にも、一生懸命勉強し、何とか機能を入れ込み、リリースすることはできたのだが、巷の評判はさっぱりで、その後のアプリのバージョンアップの次元の狭間に飲み込まれ、その機能はひっそりと消えていった。まぁ、特にショックとは感じず、データベースの勉強ができてラッキーってな感じだった。
※過去の出来事を綴ってます
前回の頓挫してしまったプロジェクトの思い出話をいくつか挙げてみる。
協力会社組の中に、外国人の優秀なプログラマの方が居て、自分の目の前の座席に座ってたんだけど、常駐先の某社員の方に、毎日のように些細な点をネチネチと言われている様を見て、あぁ、かわいそうだなぁ、と同情してた。後で知ったのだが、その外国人の方は、相当ストレスを溜めていたらしい。外国人の方の心情は、顔色だけでは分からんものなのだと知った
常駐先の社員であるベテランプログラマの方が、重要な機能を担当していたんだけど、デキがあんまりよろしくなく、進捗確認ミーティングの度に、リーダークラスの連中から文句を言われていた。その方も相当ストレスを溜め込まれたようで、途中からメールにその辺の愚痴を書き出したりし、最終的には遠い国に行ってしまったらしい(所謂ドクターストップ)。どんだけ旅行好きなのだこの会社の社員は。ちなみにソースコードのデキの悪い部分は、超優秀な某新入社員がフォローしていた。聞くところによると、グローバル変数が多用されたわけわかんないコードだったらしい。
自社の先輩の心無い言動に、何度かカッチーンときてしまい、この人だけには絶対に負けたくねぇと、猛烈に仕事関連の勉強をし始めたのはこの頃から。第一種情報処理技術者の資格を取ったのもこの頃。やる気だけはあったもよう。
閑話休題。
過去のバージョンの焼き直し作業も、スケジュール的に非常に厳しいものだったが、頓挫した新規バージョンの盛りだくさんぶりに比べれば、屁の河童だった。なんだかんだで予定通りにリリースされ、なんとかやっていけるかなぁ?と思ったりもした。この油断が、後々の悲劇を招く。
※過去の出来事を綴ってます
当時の日記によると、最初の職場はスーツ着用が必須だったが、二番目の職場は私服 OK ってことで、なけなしの貯金をはたいて(←おおげさ)私服を買いそろえたらしい。
閑話休題。
初日。常駐先の社員の方との交代要員ってことだったが、なぜ交代になるかは知らされていなかった。で、その交代になるという方と挨拶をしたのだが、その方は「遠くの国に行ってきます」と謎のメッセージを残し、その日から出社しなくなった。そのときは「出張にでも行くのかな?」と思ったんだけど、後日、あまりの激務に体を壊してドクターストップがかかってしまったのだと知らされた。な、なんだってー。いわゆる修羅場の現場に放り込まれたピチピチの新人である僕の運命やいかに!?とりあえず初日は9時まで残業させられたことを過去の日記共々記しておく。
実は自分より先に自社の先輩(←としておく)が一人居た。なので、その先輩の下で指導を受けながら働くことになった。その先輩は VC++ の知識に長けており、組み込み C しか知らない自分にとっては尊敬せざるを得ない人物だった。しかし…(略、後日書く)
プロジェクト自体は火がつきまくりの大炎上状態で、日々の進捗ミーティングはリーダークラスの連中がお互いの主張を曲げないタイプだったので、毎回修羅場だった。一度だけ仲裁に入ってみたけど、なぜかこっちが睨まれる始末だった。それ以来、その手の展開になったら無視を決め込むことにした。一言で言えば、とあるソフトウェアのバージョンアップだったのだが、かなり色々と詰め込んだせいで、誰も彼もがアップアップ状態だった。自分は全然仕事ができないのと家が遠い(片道2時間以上)こともあるので早く帰っていたが、常駐先の社員は毎日夜遅くまで働いていたようだ。そりゃー遠い国にも行くわな、と納得するしかない状態だった。そんな状態が3ヶ月くらい続いただろうか、、結局プロジェクトは頓挫し、高度に政治的な判断にて過去のバージョンの焼き直しをすることになった。みんな心の中で泣いていたことだろう。僕はまったく泣かなかったけど(つーか唖然としてただけ)。
※過去の出来事を綴ってます
案件がなくなったところで、仕事に飽きたという自分の意思が変わるわけでもなく、社内求人活動は続いた。詳しい経緯は忘れたので割愛するが、またもや某大手メーカー内での Windows な作業があるという。会社の規模は小さいのに、なんでこう大手メーカーの名前ばっかり出てるんだウチの会社の案件は、とか思ったりもした。何より、Windows の開発が未経験な自分がそんな案件に関われるものなのか?と、当時は考えたものだが、要するに、プロジェクトが火を噴いて人が足りてないときに、なりふり構わず人を集めるパターンにたまたまハマっただけのことだった。大人ってキタナイ!
問題は作業場所。なんと自宅から片道2時間以上かかる。携帯も PSP も発達していない時代に、往復4時間以上も電車の中で何をしろと。。しかしまぁ、最初の職場も初めの頃はそれくらいかかってたし、小学校時代から、長時間の通学・通勤に慣れた身としては、そんなに苦ではないなと思った。若いってスバラシイ!
ともあれ、案件が決まったので、MFC の勉強を再開したものの…ぶっちゃけさっぱり分かんなかった。C++ 自体は大学自体にちろっと習ったけど、参照の意味が理解できずに終わっていた(←致命的)。うーん…まぁ、なんとかなるだろ、という開き直りコマンドを選択する道しか残ってなかったんだけどね。しかし、この選択が、後々まで影響を及ぼすことになるとは、これで仕事の帰り道にゲーセンにたくさん寄れるようになるなぁ、と、仕事の不安の前に考えてしまう、当時の能天気な自分には想像もできなかった。
※過去の出来事を綴ってます
前回は、最初の仕事がさもあっさり終わったように書いたけど、実際は、次は何の仕事をする?という話になっていた。(形だけの)上司から、「何がやりたい?」とか言われていた。しかし…ぶっちゃけ、ぺーぺーの新人を2年以上もほったらかしにして、「次にやりたいことは何だ?」とか問われたところで、まともな回答なぞできなかった。加えて、まぁなんでもやりまっせ的な自分の性格も手伝い、「仕事があるならそこに行く、ただし今の仕事は飽きたのでもう嫌」ということだけは伝えた。
しばらく経つと、某大手メーカーの Windows な案件があるけどどうだ?と言われた。しかし、当時の自分は、VB6.0 を多少いじったくらいで、Windows の知識なんぞほぼ皆無だった。しかも、その職場は、MFC バリバリな動画処理の世界だという。その頃の自分は、MFC?ナンスカソレ?KFC の親戚?動画?MAG みたいなもの?状態だったので、そのことを上司に言うと、MFC の本を買えと言われたので買ってみた。すんげー高くて分厚い本だった。とりあえず読んでみたが、まぁ、案の定、まったく理解できなかった。それでも必死こいて読んでいたら、そのメーカーの開発の縮小だか何だかで、案件自体がなくなってしまった。ちょっとガッカリすると共にちょっとホッとした。今じゃ想像もできないが、当時の自分はまだまだ初々しさが残る若手だったのだ(←これ書いたヤツ馬鹿じゃね?)。
※過去の出来事を綴ってます
1人での常駐が一年くらい続いたと思う。その間、特に大きなイベントも無く(他の協力会社の方が転職すると言って去っていったくらい)、淡々と仕事をこなして毎日ゲーセンに通うくらいしかやることがなかった。
自社の営業さんは、最初の頃は数ヶ月ごとに様子を見に来てくれていたが、そのうち半年に一度くらいしか来なくなった。これは余談だが、数年後、その営業さんも転職してしまったことを、年賀状で知ることになる。
常駐期間も2年ほど経つと、新人だったおいらも仕事に飽き出し、放置プレイが続く自社に対する不信感も募り、順調にやさぐれ始めた。ということで、どういった手段を採ったかは忘れたが、交代要員を用意してもらって、自分はこの職場から去る方向になった。ヌルく仕事を続けることもできたんだろうけど、なんか我慢ならなかったんだな。
交代要員は…新卒入社の男だった。自分同様、新人を客先で育ててもらおうという魂胆丸出しな自社に呆れつつ、この新人に、3ヶ月ほどで仕事を引き継がせねばならない。入社3年目にして後輩ができた訳だが、もの凄い勢いで仕事を教え、時には怒り(一度だけよん)、職場を去る日を迎えた。引継ぎに不安を残しつつも、最後はまぁ俺ができたんだから君もできるっしょ的な理屈をこねて脱出してきた。これにて2年と3ヶ月に渡る最初の客先常駐は幕を下ろした。
※過去の出来事を綴ってます
自社の先輩である C さんとの二人三脚の仕事がしばらく続いた。組み込みの仕事と言えど、開発環境は Windows であり、テストツールやファームウェアアップデートツールなど、時には Windows で作られることもあった。A さんが残していったテストツールは、VC++1.5 で作られていた。これは純粋な MS-DOS 上で動くアプリを作ることができる優れもの(?)だった。I/O ポートを直接叩くことができるので、RS232C の TX/RX の状態をポーリングしながら制御するなんてことが簡単にできた。
ある時、MS-DOS 向けのファームウェアアップデートツールを、Windows に移植してみろと言われ、慣れないっつーか初めての Windows プログラミングに挑戦することになった。もちろん MFC なんか使えるスキルは無いので、最初は VB4.0 でやることにした。MSComm という ActiveX を使って COM ポートを制御してみたが、あんまり性能が良くなかった。なんだかんだ調べ、VC++5.0 + WindowsAPI + スレッドでやってみたところ、多少強引な実装だったけど、満足が行く性能が得られた。ただし GUI はてきとーだった。Windows プログラミング入門としては、アプローチが逆だったかもしれない。
常駐期間が1年くらいになった頃(正確な期間は覚えてない)、常駐先の会社から、人員削減のお達しがあった。うちの会社の人員を2人から1人に減らせと言う。どうなることかなーと思ってたら、先輩である C さんが去っていった。後で知ったのだが、A さんがおいらを残すように上司に掛け合ってくれたのだそうだ。なんだかなーと思いつつ、そこからは1人での常駐が続くことになった…。
※過去の出来事を綴ってます
またもや前回の補足。最初の配属先はかなり自宅から離れており、通勤に2時間くらいかかっていたが、常駐先の会社の都合により、作業場所が自宅近くになったことで、通勤時間は40分くらいになった。あんまり近くなってないように感じるかもしれないが、自宅から最寄の駅まで車で10分、電車で20分、そこからバスで10分かかるので仕方が無いところ。小学校時代は20分、中学校時代は30分、高校時代は1時間、大学時代は2時間という通勤・通学時間を経験した自分にとって、その程度の通勤時間はあんまり苦ではなかった。
話が反れたところで仕事のお話に戻る。現場は A さんがいつも忙しく、他のメンバーはそこそこ、という感じだった。A さんはプロパーゆえに仕方の無いところだが、新人である自分のやれる作業もそんなにないので、自習をしながら日々を過ごしていた。
作っていたファームウェアには OS が搭載されておらず、main 関数内で無限ループが組まれ、その中でイベント駆動型…と言ってしまうと大袈裟なのでフラグ駆動型とでも言えるような関数呼び出しの羅列があった。要するに、あちこちの関数や各種の割り込みハンドラ内でフラグを立て、メインループでそのフラグの有無を判定し、処理を分けていく構造だ。自分は他の製品を見たことが無いので、プロの製品のコーディングとはこういうものか、などと納得するしかなかった。とりあえずフラグ変数のビット数はすぐに足りなくなって追加する羽目になったことは覚えている。
A さんはアセンブラ時代のプログラミングスタイルを C 言語に持ち込んでいたせいか、一つの関数が異常に長かった。B さんも A さんに似たり寄ったりだが、C 言語の知識は豊富だった。ただし、ソースコードは美しいとは言えなかった。ろくな経験も無い自分がコーディングの美しさを語れるのは、入れ違いで辞めていった先輩が残したコードが、関数ポインタを駆使したとても分かりやすくスマートなものだったからだ。今思うと、あの先輩に色々なことを学べなかったのはちょっと惜しかったな。
数ヶ月くらい経ったところで、B さんが現場を離れることになった。代わりに来た先輩(C さん)は、B さんよりも若かったせいもあるが、なんとなく頼りにならない雰囲気を醸し出していた。実際、そんなに頼りにならなかった(失礼)が、先輩は先輩なので、形としてはその先輩の下で働き続けるしかなかった。仕事はさておき、趣味などは近いものがあり、よく話しかけてくれたりした。
※過去の出来事を綴ってます
前回の補足。登場人物は全員男。そして、入れ替えで退職していった先輩は、その頃結婚したばかりだった。結婚を機に色々考えた結果、転職することにしたのだろう。当時、直接本人に聞いたわけではないのだが、辛酸を嘗め尽くした今なら先輩の気持ちが分かる気がする。
仕事の内容は、とある機器のファームウェア開発。シリーズ物として数種類発売されており、それらのメンテナンスと新機種の開発、及び納入メーカー毎のカスタマイズを行うというもの。対外的な窓口は A さんがすべて行い、内外問わず、あらゆる火の粉を振り払ってくれてたので、他のメンバーは開発に専念することができた。入社して数ヶ月経った頃、出張地獄で全然会えなかった自社の先輩(以降 B さん)が、ようやく解放され、全体の開発体制は、ソフトウェア担当の A さんと B さんと私、ハードウェア担当の協力会社2名と合わせて5人になった。自分を除いて全員が30代だったので、びみょーに話題が合わなかったりしたものだが、基本的には皆仕事ができ、面倒見も良かった。そんなこんなで、C 言語やアセンブラ(SH-1)から始まり、ICE の使い方、ファームウェアアップデートの概念、オシロスコープの覗き方、ROM の焼き方に至るまで、組み込み屋としての基礎を学んだ。
新機種の話はチラホラあったものの、基本的には過去機種のメンテナンスフェーズだったので、それほど作業量も多くなく、自宅(実家)も職場から近かったので、だいぶ楽をさせてもらった。毎日のようにゲーセンに通い、淡々と当時の STG を攻略していった。仕事とは関係ないが、この頃、保険屋のおばちゃんに薦められるままに、高い生命保険(現在は解約)に入らされた。若かったな。。
常駐先には、既に自社の先輩が二人居て、そのうちの一人が退職するので、自分はその方の引継ぎ要員だった。まだ30歳くらいだというその先輩は、すぐに居なくなってしまい、引継ぎらしい引継ぎも無かったように思う。もう一人の先輩は、不具合の修正だかなんだかのための出張続きで、ほとんど現場に顔を出せず、実質、常駐先の社員さん(以降 A さん)が、自分の教育係となった。
A さんは 30 歳位で、ちょっぴり体育会系なノリの人だった。アセンブラが得意だけど C 言語は苦手、ハード屋さん(ハードウェアな人のこと)出身なので、回路図と半田ごてを武器に基盤修理もこなせる人だった。ご本人は専門卒を気にしているようだったが、技術的にも人間的にもとてもデキた人で、ペーペーの新人である自分に何かと世話を焼いてくれた。当時の自分は、大学で習ったはずの C 言語のポインタすら分からなかったが、A さんは苦笑しつつも怒ることなく丁寧に教えてくれた。お酒好きだったので、他の常駐社員を誘って、頻繁に飲みに行っていた。自分も何度も誘われた。お酒が入った A さんは、やたらと陽気になるタイプだったが、絡んでくることは無かった。
常駐先の人が、自社の新人でもない人間を、給料を支払いつつ教育してくれ、手間もお金もかけないわ新人は勝手に育つわピンはねできるわ…という、常駐会社にとって美味しすぎる環境だった。偽装請負の話題真っ盛りな今日(こんにち)では考えられん(いや考えられる現場もあるかも?)が、自社の先輩にほとんど頼れ無い状態での A さんの存在は有り難かった。
事前面接(禁句)に負け、社内で悶々と勉強をする日々。そんなある日、開発センターのメンバーで、近所の公園だかどっかに行って、お花見をした。お花見といってもお昼休みにちょっと外に出ただけだが。んで、大学時代の寮生を偶然発見(あっちはこちらには気づかなかった)。学生時代からプログラミングを嗜み、たまに完成したカードゲームなんかを見せにきてくれた彼は、将来ハスラーになるとか言って大学を中退したとか何とか聞いていたが、スーツを着て昼間から歩いていたので、まぁ、プログラマーになったんでしょうな。
そのような不毛な日々を過ごし、五月も近づいてきたある日、また事前面接(禁句)が発生。某メーカーの工場内での面接内容はよく覚えてないが、大したことは聞かれなかったように思う。んで、トントン拍子に採用が決まり、そこで働くことに。後から知ったことだけど、先輩の一人が退職するってことで、その交換要員ってことで採用されたのだとか。ちなみにこのときのオイラは実家暮らしだったが、その現場までは朝のラッシュ時は片道二時間以上かかる。更に工場の朝は早いので、毎朝6時には起き、7時前後の電車に乗らないと、終業時刻には間に合わないのだ。満員電車の中、少しでも空いている場所(ちなみに座れない)を探し、歯を食いしばって通勤するのだった。
ここでちょっち補足。本来の請負業務は、最終的に成果物さえ納めることができれば過程はどうでも良く(ってどうでも良いってことは無いけどとりあえずこういう表現を使う)、客先の現場の人間がおいらに対して業務指示を出してはならず、就業時刻を客先に合わせる必要などもないので、実は朝早く起きる義理は無い。ソフトウェア業界、いやまぁどこの業界も同じような感じかもしれんけど、こんな状態が未だにまかり通っている。
職場は古ぼけた工場内にある実験室の片隅だった。机もコピー機も PC も古いものばかりで、働く人間も 20 代はおいらだけの様子。そんな環境に不安になる知識も暇も無く、いつのまにか現場常駐人生は始まっていたのだった。
四月になり、所謂社会人としての第一歩を踏み出したわけだが、結局配属先は決まらず、開発センターなる場所にて、正式な配属先が決まるまで待機状態となった。残った新人は自分を含めて三名だけになっていた。しかも、他の二人は社内開発に配属されたため、残ったのは自分だけという異常事態。教育担当らしき人物は「とりあえず何か勉強してて」というアバウトな指示をするだけで、具体的な勉強方法などは一切触れず。とりあえずプログラマーっぽくプログラミングの勉強でもするか、ということになったが、なんと社内に余っている PC が無いという。机上統合開発環境かよ!…仕方ないので、自宅のノート PC を会社に持ち込んで、MFC なんぞを渋々勉強する日々が始まった。しかし今更ながら文章にすると酷い会社だなこりゃ。
一週間ほど経って、とある客先に、とある先輩と一緒に配属面接を受けて来いと言われ、面接に行くことになった。ちなみに業務に従属する以前に面接をすることは禁止されているが、偽装請負では常套手段。なので、『面接』ではなく『顔合わせ』とか『打ち合わせ』とかいう隠語(?)に置き換えられることが多い。そんな豆知識はともかく、面接。こちとら大学でのプログラミング経験はほぼ皆無なわけで、面接内容といったら当然のごとくボロボロ。っていうかもう内容は覚えてないけどダメダメだった気がする。んで、数日経ち、結果は NG。ちなみに一緒に行った先輩は OK だった。またもや社内ニートに戻り、次の面接まで勉強な日々。社内での居心地が悪かった記憶がある。っていうか新人にこんな想いをさせるんじゃねーよ!
普通の会社は四月から新人研修が始まるようだが、その会社はなぜか三月から研修が始まった。卒業も決まってたし、交通費や昼食代も出るので、そんなに負担ではなかったが、今思えば疑問点が多数ある。だって、一応まだ学生なのに、入社前に研修なんて、変でしょ?つまるところ、自社開発はごく一部なので、自社に新人(というか社員全般)を全員置いて置けるほどの余裕はない。なので、四月になるや否や、客先に常駐させてガシガシ稼がせるのが手っ取り早いわけで、そのためには売り込むための事前準備をしておく必要がある。つまりそれが三月の拘束期間という寸法。会社的には余剰人員=不良債権(客先に送れないので稼げない)を抱えるリスクを事前に減らせる訳だ。このあたりの仕組みに気づけなかった自分が情けないが、社会の波にもまれる以前の話なので勘弁していただきたい。
さて、肝心の研修の内容は…よく覚えてないけど、社会人の基本的なマナーやら C++ 研修やら…だった気がする。この時点では、新人それぞれが、どの客先に売られていくかは不定なので、ぶっちゃけ研修対象を絞ることができない。よって、無難な研修内容にするしかない(世の中ってうまくできてるなぁ)。可もなく不可もない研修が終わりに近づくにつれ、大半の新人は、こそこそと上司やら営業やらに呼ばれ、四月から常駐する客先の説明を受けていたようだ。←なぜ断定口調じゃないかというと、自分はこの時期に呼ばれなかった一人だから。理由は今でも分からない。んで、結局、80人(!)ほどいた新人のうち、四月までに仕事が決まらなかった新人は、自分を含めて数名だけになっていた。。
なんとなく思い出をぽつぽつ語ってみることにした。
大学三年の冬、所謂就職活動なるものを開始。高校入学時から漠然と「就職先はゲーム会社がいいなぁ」と、中二病らしい発想を長く続けていたこともあり、それなりに応募してみるも、プログラミングスキルが高いわけでもなく、人間的魅力があるわけでもなく、一次面接以上は進めず。とりあえずゲーム会社は諦め、コンピュータ関連の会社を数社周り、なんとなくよさそうな会社(とんだ思い違いなのだが当時気づけるわけでもなく)から内定が出たところで就職活動に終止符を打つ。就職までは大学を卒業するだけとなった。大学の研究室は、放任主義な教授だったので、卒論のテーマや進捗などについて、特に突っ込みを受けることもなく、かなりいいかげんな卒論を提出し、無事卒業を果たす。
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